明日をシェア・行政や議会の脱皮も、創造的破壊仕様で求められているよう

10月20日 このよき日は私の縁者も誕生日だったのです。今は亡き祖父と義父ともに同じ誕生日でした。ブログやfacebookは書き続けていますが、あまりにもHPの活動報告がおろそかに。3か月ぶりです。先祖に感謝しつつ、公共と関わらせて頂いた者として、続けて多様な考察をしたいと思います。

今までも自治体の行政が問題なく運営できたかと言えば、何時の時代も難しかったはず。さらに現在、立ち位置すら難しい時代になっているようにも思えます。国のカタチが中央集権から地方分権に移行しても憲法にも盛り込まれず、地方分権社会の行政と議会と市民社会の有り様は、変わるに変われない日本の20年でしょう。地方議員のなり手が無いのも、うなずけるわけです。
東京都の今の問題も、先送り先送りで、財政が潤沢な都政だからここまでに。富山県の議会の問題もしかり、議会も行政も改革・革新という文字がずっと踊っていても先送り、日本人は対話せず、真なるものを曲げても合わせるのが上手なのかもしれません。

格差社会は決定的なものになっているように見えます。公共の役割は大きいはずですが、セーフティーネット機能も脆弱であり、それも少しの工夫で支援の手が差し伸べられるのに、毎年同じ手順通りではできるはずもない。
私が仲間と共に4月から開設した障がい者就労支援事業所を通して、学ぶこと、気が付くこと、提案したいこと、沢山あります。

偶然見つけた本で、政治を議論する地域社会や家庭でないことを「建築の歴史」から分析されている論説を拝見しました。現代建築で人々は最高にプライバシーとセキュリティーを得たのだという考察は、腑に落ちました。そういう現代であると頷きながらも、さはさりながら、市民社会からか、議会が先か、行政が先かはわかりませんが、そのどちらも未来のシナリオを描きつつ、バックキャスティング(未来像を予見しつつ課題克服への活動を展開)的な活動が求められていることを皆さんと共有したいのです。

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