

1958年静岡市生まれ。
静岡雙葉高等学校、文化女子大学家政学部生活造形学科(織物専攻)卒。
1988年に結婚、掛川市が本籍地となり、1995年、掛川市に転入(横浜市より)。
日々の暮らしを平凡に営むが、嫁いだ地域の水の問題がつながり、政治の世界へ。
旧掛川市議会議員(2003年4月~2005年3月)
掛川市議会議員 (2005年4月~2009年4月)
静岡県議会議員 (2009年7月~2011年4月)
家族:夫、長女
- 元掛川市民生委員・児童委員・主任児童委員
- 元掛川市環境創生委員
- 元掛川市女性行動計画推進委員
- 元太田川流域委員
- 元倉真川河川改修勉強会事務局
- 第二回世界お茶まつり(2004年)準備実行委員
- 静岡県茶文化振興協会元理事(2005年3月まで)
- NPO法人日本茶インストラクター協会元理事(2005年3月まで)
- 静岡県「強い農業づくり交付金事業」評価委員(2009年3月まで)
- NPO法人日本茶インストラクター協会理事(2011年3月~)
- 倉真地区まちづくり委員会 顧問
- 中東遠総合医療センター 病院ボランティア設置検討委員(2011)
- 掛川地区更生保護女性会会長(2013.5~2015.5)
- さくら音楽祭(第一回)実行委員長(2014.3)
- NPO 人とペットの暮らしを育む会 ナームハート 理事・事務局長(2014.3~)
- 日本茶AWARD2014 実行委員(2013.12~)
- NPO法人 輝北の杜 理事長
- 障がい者就労継続支援B型事業所 きほくのもり☆ペンタス 設置者
- その他
掛川市子ども読書を考える会、fan地域医療を育む会、病院ボランティアなどの会員としても活動中
私のスタイル

社会生活の最小単位は家族です。その家族を大事にすることが、市や県や国のことも大事に考えられるベースとなると私は信じます。
議員生活と、子育て・介護を両立していく過程が、そのままワークライフバランス(仕事と生活の調和)について考える機会となりました。
日々の生活の中で、暮らしの細やかな疑問や課題を放っておかないで、ひとつひとつ着実に行動することで解決していく。それは、これまで私を形づくってくれた「織物」という手仕事を通じて、また「茶の世界」を通じて培われた、私のスタイルなのかもしれません。感性と実践力をもって、社会に奉仕する女性として、活動を促進していきます。
「本気ですれば大抵のことはできる。
本気ですれば何でも面白い。
本気でしていると誰かが助けてくれる。
人間を幸福にする為に本気で働いている人間は、みんな幸福でみんなえらい」
(明治大正時代の教育者、後藤静香の言葉より)
何事にも興味を持って、「本気」でまい進していくのが私のスタイルです。
私と織物の関係は、中学2年生の夏休みからはじまります。機織りをする近所のおばあさんにあこがれて、弟子入りしました。
縞(しま)模様の着物を織る場合、事前に縞(しま)わり計算が必要になります。当時、数学が好きだった私は得意になって計算したものです。今となってはいい思い出です。
大学では織物を専攻し、草木染め、紬糸の扱いなど覚えました。今でこそ、ゆっくり糸を染める時間も、機を織る時間もありませんが、大学を出たばかりの頃、絹糸を洗っているときに見上げた空の美しさと、自然との一体感の気持ちよさを、今もよく覚えています。
着尺(きじゃく)を織る場合、できあがりをイメージし、赤糸は全体の何パーセント、青糸は何パーセントというように、染める前に全体の糸の量を割り出す必要があります。
これは、ビジョンを描き、目的目標を定め、その実現に向けて努力工夫する協働活動と似ています。将来像というビジョンがデザインされ、縦糸と横糸を織り込みながら、コツコツと少しずつ創り上げて行く。こうした手仕事のプロセスが、議員になっても、私のしぜんの流儀になっているようです。
- 賞歴
- 静岡県芸術祭 工芸の部 芸術祭賞受賞1回、ほか入選2回
富嶽文化賞 入選1回 (全て旧姓尾崎で入選受賞)
以前、実家の家業がお茶に関わっていましたので、私にとってお茶の記憶は、さまざまな色合いを帯びています。
昭和30年代、積み上げられたお茶の山(合場「ゴウバ」に積み上げられた1000㌔のお茶)に面白半分に侵入し、そこから滑り降りた幼児の頃の記憶。
新茶のシーズンになると、朝5時ごろから生産者の方があちこちから集まります。5つ玉のそろばんをはじく音、手を3度、打つ音。活気にみちた朝の風景は、真剣で神聖な空気とともに、今も頭の片隅に残っています。
祖父からは、こんな話を聞きました。
江戸時代の文政年間、村々の長が茶農家の窮状を見かね、幕府に直訴をした「文政の茶一件」があり、また続いて「嘉永の茶一件」がありました。江戸の茶商らが価格を操作していたという一件で、私の先祖らはこの一件に関って茶の適正な安定流通を求め、江戸へ出向いて訴えたと伝えられています。
家業の手伝いをしていた20代、お茶インストラクターになった40代、そして議員になって6年の間、私はお茶の現場の変化を見つめ続けてきました。
私にとってのお茶は、歴史であり、文化であり、大切な宝物です。日本において1200年以上の歴史あるお茶を、継承していくことが私たちの務めであると考えます。作り手のこと、育てる環境のこと、流通のこと、「どうあればいいのか」を常に考え続け、正面から立ち向かっていきます。